ヒストリー

湯河原カンツリー倶楽部今昔物語

湯河原カンツリー倶楽部今昔物語

The Birth and History 湯河原カンツリー倶楽部の誕生と経緯 The Birth and History of Yugawara Country Club

昭和28年3月に公益社団法人吉浜カンツリー倶楽部として神奈川県知事に設立許可の申請がなされ、同5月に最後の(29番目)公益社団法人ゴルフ場として誕生した。開場は昭和30年で名称変更し湯河原カンツリー倶楽部となる。

因みに関東では湯河原カンツリー倶楽部を除く公益社団法人のゴルフ場は8コース。平成25年に法律が変更となり公益社団法人のゴルフ場は一部を除き一般社団法人に変わった。

大正3年1914 <埼玉県>東京GC

大正11年1922 <神奈川県>程ヶ谷CC
昭和4年1929 <埼玉県>霞ヶ関CC
昭和5年1930 <千葉県>我孫子GC
昭和6年1931 <神奈川県>相模CC
昭和11年1936 <栃木県>那須GC
昭和29年1954 <千葉県>鷹之台CC
昭和30年1955 <栃木県>日光CC
<神奈川県>湯河原CC開場
開場当時のアウト・1番ホール
開場当時のアウト・1番ホール
岸田日出刀委員長の視察
岸田日出刀委員長の視察
湯河原カンツリー倶楽部の誕生と経緯

Background leading to the opening 湯河原カンツリー倶楽部(以下「YCC」といいます。)開場に至る経緯 Background leading to the opening of Yugawara Country Club

当時吉浜町(今は湯河原町と合併し湯河原町)の町長小沢新太郎氏が裏山にゴルフ場を作りたいという話を、長谷川正武氏(地元の花屋さん)から原為雄、高木進両氏が聞き、のちにYCCの初代理事長である南郷三郎氏に発起人をお願いしスタートした。

南郷三郎氏は関西ゴルフ界ではすでに重鎮であり、名門の鳴尾GC、舞子カンツリー倶楽部(現在の垂水ゴルフ倶楽部)を立ちあげており、後に日本ゴルフ協会初代チェアマンであり関西ゴルフ連盟初代会長を務めた。いわば日本ゴルフ史の源流を作った人の一人である。ゴルフ界だけでなく過去に日本綿花(株)その他いくつかの社長を務める一方で、日本貿易振興会会長もつとめ、同時に柔道はじめアマチュアスポーツの振興も熱心で死後勲一等瑞宝章を授与された。YCCは南郷三郎氏が70過ぎての作品である。

湯河原カンツリー倶楽部開場に至る経緯

コース設計は、アマチュアゴルファーとして数々のタイトルを持ち後年ゴルフコース設計を手掛けた赤星四郎氏を口説きYCCの基本設計を依頼した。そのあと著名な建築家である岸田日出刀氏が引き受け出来上がったのがYCCである。基本設計は、自然の地形を生かした南斜面でほぼ全ホールから海が見えるまさにキャッチフレーズ通り冬暖かく、夏は涼しい避暑地を意識したコースである。初めて来場した人はエントランスロビー正面の巨大なガラス窓から見る雄大な海に釘付けになり、海に向かって打ち下ろす1番ホールに早くも心が躍る。いうまでもなく当時は重機がなくすべて手作りであり、そのためフェアウェイが平らに見えても大小のこぶがあり、また大きな傾斜地の中にプレーヤーを泣かす小さなアンジュレーションがある。メインのベントグリーンは18ホ-ル中10の砲台グリーン10のバンカーがあり、さらに関東でも屈指の固く早い小さなベントグリーンが待ち構えている。そのためミスショットが結果オーライにつながることはなく、寄せとパットがスコアメイクのカギを握る。若い人はグリーン手前でむきになり、中年になるとホール全般を楽しみ、シニアになると寄せとパットに磨きをかける。


余談だが岸田氏はゴルフについても知識・経験・技量申し分のないシングルプレーヤーであった。岸田氏は同時に今のドーム型赤い屋根に風見鶏を付けたYCC食堂の設計も手掛けた。今もなお海を背景に蔦の絡む重厚でエレガンスな食堂はYCCの宝である。岸田氏は東大安田講堂等の設計をはじめ著名な設計を携わる一方で、東大教授として建築家丹下健三の育ての親であり日本建築界の重鎮であった。

湯河原カンツリー倶楽部開場に至る経緯

余談として青木功氏(1942年生まれ、現日本ゴルフツアー機構会長)が若かりし頃YCCに1か月近く泊まり込みアップダウンのきつい併設のYCCショートコース(9ホール)を毎日朝晩の走り込みをしながら猛練習をしたと、日経新聞の私の履歴書に記している。その翌年1971年関東オープン初優勝しその後国内で大活躍し海外でもハワイアンオープン最終日最終ホールでの3打目がカップインイーグルで劇的な優勝をしたことはシニアゴルファーにとって周知のことである。

Blessed terrain 湯河原町&YCC 恵まれた地形 Background leading to the opening of Yugawara Country Club

東京より約100キロ伊豆半島の付け根にあたり西は熱海・伊豆半島に向かい東は真鶴から小田原に伸びている。スイカを1/4切って倒したような町である。南は真鶴半島と伊豆半島に囲まれた相模湾に面し、眼前には吉浜の海が広がる。この海には箱根南部から熱海を源流とする清流千歳川が途中奥湯河原落合橋で藤木川と合流し海にそそぐ。さらに町の東側には梅で有名な湯河原幕山の背後南郷山を源流とする新崎川が流れている。町の背後北側はおだやかな低山が連なり山裾の南斜面には1年を通し種類の異なるミカン畑が広がる。みかん畑の背後には小さな山々が重なり箱根連山から吹き下ろす北風をシャットアウトしてくれる。

湯河原町&YCC 恵まれた地形

冬は吉浜の海と、町を流れる2つの川が気温を調節し、湯河原の温泉が心身を温めてくれる。夏は山、海、川が涼を呼び、朝晩の適度な風が心地よい。そして湯河原駅から駅前の道を西に向かって行くと、やがて商店街がまばらになり、緩やかな登り坂となり出会い橋をすぎると急に木々の緑が濃くなり明治・大正・昭和の文豪に愛され、万葉集(下記)にも読まれた名湯湯河原温泉が迎えてくれる。

万葉集 第14巻・相聞 湯河原はかつて土肥と呼ばれた
“ 足柄の土肥の河内に出づる湯の世にもたよらに子ろが言はなくに ”

Now it’s time to go いざ湯河原CCへ Now it’s time to go to Yugawara Country Club

湯河原カンツリーは温泉町とは逆に湯河原駅の道路を東に向うと早くも下り坂の先に吉浜の海が見えてくる。

この海がYCCを引き立ててくれる吉浜の海だ。この海を背中になだらかな坂を上る。登るにつれ真鶴半島の全容がみえてくる。

いざ湯河原CCへ

東京からくる場合には真鶴駅から国道135号線を西に向かい真鶴駅の先200M付近を標識に従い右に折れすぐ左に曲がり、つきあたりを右に坂道を上りしばらく上ると道はY字型に分かれる。標識に沿い右の道をえらび登っていくと道なりに大きく右に曲がる。やがて右に大きくカーブさらに左に曲がりしばらくして高い木に覆われた急な坂道にさしかかる。ほどなく左側に黄色の案内標識があり、小さな橋を渡るとそこからが湯河原CCの進入路だ。門柱に一般社団法人湯河原カンツリー倶楽部とある。登ること約300M標高400M突如視界が広がり1番ホールが左側に出現し倶楽部ハウスに到着する。

自動扉が開き正面に進むと巨大なパノラマウィンドウが出迎える。感動の一瞬だ。

歌人与謝野晶子がしばしば滞在した吉浜の高台真珠荘から見た相模湾と真鶴半島、伊豆半島がそこにある。

いざ湯河原CCへ
湯河原万葉公園やケープ真鶴の石碑から
“ わが立てる真鶴崎(まなづるみさき)が二つにす相模の海と伊豆のしら波 ”

海に突き出た真鶴半島の東端に房総半島が伸び、西に眼をやれば丸い大室山を乗せた伊豆半島が見え、そして天気が良ければ水平線の先に三宅島を見ることができる。ときめきの始まりだ。YCCの1番ティーイングエリアは準備完了し、湯河原の青い空と海があなたの登場を待っている。

この続きは下記PDFをご参照願います。

湯河原カンツリー倶楽部の魅力(PDF)

いざ湯河原CCへ